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立田山・乗越ヶ丘 情報

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くまもと花と緑の博覧会 2022

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過去の報道・記事

↓ 読売新聞 1958 (昭和33).04.14
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森林総合研究所 九州支所 HP より
https://www.ffpri.affrc.go.jp/kys/business/tatuta/kurokami.html

 天皇皇后両陛下は,昭和33年4月8日,大分県別府市鶴見岳麓の志高湖畔で行なわれた第9回全国緑化大会に御出席になられた。(テーマは原野造林,植栽樹種スギ)そのあと九州を御巡幸になられて, 4月13日から16日まで熊本でおすごしになられた。

 その第2日目の14日,御宿舎をたたれて,子飼橋,リデル・ライト記念養老院に立寄られて,10時半頃立田山山頂にお登りになられた。

 この日の熊本日日新聞は次のように報じている。「快晴の日本晴,木芽冷え,舗装された立田山自動車道の両側には,行幸啓記念の桜並木,叢林の間に黒松の若木の群がすくすく育つ,戦後十余年にして若返った立田山である。淡碧の空,さんさんとぶる陽光のなかに両陛下をお迎えして,緊張のしじまがとけた立田山山頂は,ワーッと歓声爆発し,打振る千五百の日の丸の小旗が,青空に映えてうつくしい。御野立所の眼下には,熊本市街,遠くに肥後平野がひろがり,かすみの衣着て天皇日和に輝いた」と山帰来氏がかいている。

 時の熊本市坂口主悦市長は陛下の前に進み,一般熊本市の概況,この御野立所からの眺望景観についてご説明申じあげ,ついで32年7月26日熊本市を襲った大水害について,るるご説明申しあげた。陛下は終始うなずかれていた。151.6メートルの頂上のこととて,木芽冷えの風がかなり強くなり,陛下はここで合オーバをめされたが,そのとき皇后様は天皇の帽子をお持ちになり,すかさずオーバーのボタンをはめておやりになる仲むずかしいお姿を拝見したことを,いま思いだす。われわれ九州支場の三井場長ほか場員は,特別席でお迎えし,し尺の間に両陛下を拝し,感激ひとしお深いものがあった。まもなくその御野立所には行幸啓を記念する記念碑がたてられた。

 前記熊日の記事のなかにもあった立田山の登山道路は,両陛下をご案内するため熊本県において,工費340万円で33年1月7日から突貫工事で着手した。3メートルの道幅を5メートルにひろげ, 1部舗装したあとは砂利を敷いて整備した。延長約千メートル,そのほとんどは九州支場の実験林を貫通している。2月中旬に完成した。

 その両側に植えられた山桜ほか行幸啓の記念植樹は, 3月1日から開かれた「緑の週間」の第7日目, 3月7日,山桜2百本,ツツジ百本のほか2百本あまりが植えられた。坂口熊本市長,相馬熊本県林務部長,島本熊本営林局長ほか,地元立田山公園期成会会員や近傍の清水・立田・黒髪・竜南の各小中学生ら, 5百名が参加し,手に手に苗木をもって植樹した。もちろん九州支場も参加したが,とくに山桜は樹高4~5メートルもある大苗で,支柱も十分でなかったため,全部が活着しなかったのは残念であったが,いま現存しているものは毎年春になると馥郁とした花を咲かせる。

↓ 読売新聞 1962(昭和37).05.14
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森林総合研究所 九州支所 HP より

https://www.ffpri.affrc.go.jp/kys/business/tatuta/kurokami.html

 37年5月13日,皇太子ご成婚3年目,おそろいでこの九州支場へおいでになられた。29年4月熊本営林局から移転し,日も浅くご覧いただくには十分整なってはいなかったが,光栄これにすぐるものはなく,ときの片山支場長を中心に,準備万端,最善をつくしてその日をお待ちした。

 その頃九州支場における試験研究の課題はスギが中心になり,品種・特性・適地・保護などに集中し,スギの凍霜害,マックイムシの防除などとともに図表,実物標本,写真など展示してど覧いただくことになった。

 この日はわれわれの誠が通じたのか,五月晴の青空がすがすがしくひろがっていた。皇太子さま・美智子さまの御似合のカップルをお迎えして,思わず歓声がわきおこった。片山支場長がうやうやしく御説明申しあげ,廊子づたいの標本館へご案内申しあげた。熊本日日新聞の記事を引用すると「ご夫妻は標本室で片山支場長の説明をお聞きになったが,マックイムシの被害について,皇太子さまは,"このムシはマツ以外は食害しないか"とお尋ねになり,食害された松の木を興味深かげにごらんになっていた。

 また九州地方に多いスギの幼樹の凍害について、"防ぐ方法はないか,凍害に 強い品種はできないのか"と質問され,片山支場長は、"あとしばらくしますと研究の結論がでます"とお答えした。

 スギの品種改良については,熊本には「雲通し」という精英樹があることをど説明すると,皇太子は、"交配はしないのだね"とおたずねになった。

 そのあと研究室,苗畑をごらんになり,テニスコートを通られ,樹木園をごらんになった。樹種は約4百種ばかり,植栽して日も浅くまだそれぞれの特性もみられず,お喜こびいただけたかどうか。ただ後の立田自然公園の森をパックにしたこの前庭には,ご興味があったようにお見受けした。

 その頃の木造平屋建は白アリによる蝕害,試験研究の進展による狭隘などのため,とりこわし鉄筋コンクリート造2階建の共同試験室が新設され, 43年10月24日落成式が挙行された。

 標本館はそのとき整備され,それを骨子として年々標本数も増加している。そのときの樹木園は庁舎建設のため撤去され,中庭に移植,10年余をへて,それぞれの特性があらわれ,研究の用にも供されるようになった。

熊日新聞 1997.04.21 夕刊 9頁

熊本市のオアシス・立田山 

新緑に誘われて… 澄んだ空気、森を縫う遊歩道 自然と歴史満喫

 市街地にほど近い熊本市の立田山。この季節、鮮やかな新緑の若葉が山を包む。澄んだ空気、鳥のさえずり…。静かな森を縫うように遊歩道が整備され、早朝から散歩を楽しむ市民も多い。憩いの森立田山の春を紹介する。

 午前八時、熊大キャンパス横からワンルームマンションやアパートが立ち並ぶ学生街の坂道を抜ける。右は細川氏の菩提(ぼだい)寺・泰勝寺跡。正面にはプロレタリア作家・徳永直の文学碑。左の急坂から、ツツジが咲き誇る水源地を通り、山道に入る。

 ジョギングシューズを履いた散歩帰りの会社員、山菜採りに行くという夫婦などと次々にすれ違う。「森林浴もできるし車も来ない。家のすぐ近くにこんな良か散歩コースがあるのがうれしくて」と、エプロン姿の四十歳代の主婦二人連れ。夫や子供を送り出した後、愛犬を連れて散歩するという。

 うっそうとした木々の間から差し込む朝の光。遊歩道に響くウグイスの声。印象派の絵画の中に迷い込んだ気分にさせられる。

 立田山は標高一五一・六メートル、れっきとした休火山だ。「生活環境保全林」として、県と同市が二十二年間かけて整備してきた。広さは約百五十ヘクタール。春はサクラ、夏はネムノキなど季節の樹木ごとに植生した四季の森のほか、「常緑広葉樹の自然保護林」「スギの植栽試験林」などの研究所の森がある。周辺には神社や墓地も多い。

 中腹の「豊国廟」跡は、加藤清正が豊臣秀吉をまつった金ぱく張りの社跡。脳の神様として知られている。体いっぱいに体操をしていた近くのお年寄り(76)は「信心せんもんで、何で脳の神さんかは分からんですが、ここを散歩すると健康によか。長生きできそうです」。

 うす暗い山道とは対照的に、万石川のほとりは芝生の公園。さまざまなアスレチック施設があり、沼の釣りやボール遊びに興じる親子連れは多い。清水小六年の男の子たちは「自転車で二十分。ファミコンよりずっと面白いよ」と釣りに夢中だった。

 約三十分で頂上へ。ここからの見晴らしは木々に阻まれてよくないが、途中の展望台からは市街地が一望できる。

 立田山に憩うのは、人間だけではない。タヌキや野ウサギ、多くの野鳥も暮らしている。最近はカラスが増えているという。「カラスも安心してすめるところが減ってきているんでしょう」と散歩中の女性(45)がつぶやいた。

 立田山に残った森や自然が”貴重”となってしまった現在-。立田山は、人と自然のかかわりを優しく諭してくれる里山だ。

熊日新聞 1999.02.08 夕刊 9頁

熊本ひと昔=昭和52年2月12日 徳永直しのび碑建立

 熊本の生んだ作家徳永直(一八九九-一九五八年)は代表的なプロレタリア作家の一人だ。

 飽託郡花園村(現熊本市)生まれ。黒髪小を中退し印刷工となり、転職を重ねて二十三歳で上京した。印刷所植字工として労働争議に加わり、解雇されたが、これを基に書いた「太陽のない街」(一九二九年)で一躍、労働者出身のプロレタリア作家との地位を得た。

 文学碑は、没後、地元で忘れられがちな徳永を顕彰しようと、熊本大の研究者たちが中心になって建立に奔走、実現させた。場所は立田山登山口の竹林わき。除幕式は昭和五十二年二月十二日にあり、徳永の遺族も詰めかけた。碑には「私たちはもっと労働について語らなければならない…」と「最初の記憶」の一節が刻まれた。

 今年はちょうど生誕百年。毎年行われている孟宗忌は今年は十三日午前十時から。碑前祭の後、午後から場所を移し、記念講演会などがある。

熊日新聞 2000.05.13 朝刊

熊本市の「つつじケ丘横穴群」 18群48基を確認、柱穴跡も数多く 古墳後期 葬礼解明に手がかり

 熊本市教委が平成二年度から進めてきた、同市黒髪七丁目のつつじケ丘横穴群(古墳時代後期)の発掘調査が終了し、遺跡のほぼ全容が明らかになった。十八群四十八基の横穴墓が確認され、全国にも例のない柱穴跡が多数見つかった。当時の葬送儀礼の様子を解明する上で重要な資料が得られたという。市教委は今後、保存・公開の在り方について検討する。

 横穴群は平成二年、マンション建設用地の造成工事中に見つかった。研究者や地元住民から、十分な調査と保存を求める声が上がったのを受け、市教委が一帯約五千七百平方メートルを買収して発掘調査を進めてきた。

 同横穴群が造られたのは六世紀後半-七世紀前半。立田山の緩やかな斜面を掘り下げて造った大小の前庭(平たん部)を、一-八基の横穴が囲んで一群を形成している。横穴墓は崖(がけ)面に造られるケースが多く、広い前庭を持つ構造は全国的にも珍しい。

 また、前庭入り口付近を中心に多数の柱穴跡が見つかった。祭祀(さいし)のため幟幡(のぼりはた)を立てたり、門や鳥居のような施設があった可能性も考えられる。柱穴跡は古墳では多く確認されているが、横穴墓では全国にも例がないという。

 多くの横穴墓内からは複数体の人骨が見つかり、追葬が行われていたことが分かった。一基の横穴墓に一家族が葬られ、一つの前庭を囲む一群は一族に当たると推定される。死者の”よみがえり”を怖れたのか、人骨の一部を墓の外に持ち出したり、並べかえた跡もみられた。

 前庭は横穴墓ごとに明確に区画され、墓前祭祀に使ったとみられる土器(須恵器)が大量に出土したほか、地面で火を燃やした跡もあちこちに見つかった。上位の層からは八-十二世紀の遺物が出土。各前庭は八世紀ごろから人為的に埋められ、その後も長期にわたり祭祀が行われたり、土葬墓として再利用されていたとみられる。

 調査を担当した同市教委文化財課の美濃口雅朗主事は「十分な時間をかけて詳細に調査できたことで、葬送儀礼のプロセスを具体的に知るための重要な資料が得られた。今後は出土した人骨を分析し、死者の血縁関係などを調べる」と話している。

朝日新聞 2002.10.01

熊本市・立田山憩いの森 住民運動で残った(火の国をゆく)/熊本

 「あんとき開発されたらどぎゃんなったかわからんね」

 30年以上前、熊本市の北部にある立田山を守るために立ち上がった一人、熊本市黒髪6丁目の無職丸山三郎さん(81)は振り返る。開発に揺れた立田山は住民の運動がきっかけで、約半分が「立田山憩の森」として残された。現在、自然観察などで多くの人が訪れる。

(金子元希)


 対向車とやっとすれ違う道を抜けると、「お祭り広場」の芝生が広がる。「立田山憩の森」は面積150・42ヘクタール。遊歩道が整備され、管理センターには職員が常駐し、清掃などを行っている。

 「夏の森」などと名付けられた森はコナラの緑が映える。耳を澄ますとウグイスのさえずりが聞こえる。池ではトンボが軽やかに舞う。

 70年代前半、その立田山を長崎県の業者が開発するという情報が、丸山さんら黒髪地区の住民に入った。すぐに立田山を守る住民の会を結成した。「熊本市や県に陳情した。長崎県まで出向いて業者に直談判もした」
 願いは通じた。74年、林野庁が国庫補助事業として保安林買い入れ事業を創設。それに合わせ、県と市による立田山の買い入れが始まった。

 買い入れと同時に、生活環境保全林としての整備事業も始まった。自然林の造成、広場の整備などが進められた。そして95年、「立田山憩の森」は20年以上をかけて完成した。総事業費は70億円を超えた。

 「50年前までは人が住んでいたが、その後山は荒れた。きれいになり、利用しやすくなった」と立田山の西側の同市清水万石2丁目、無職武田学さん(66)は話す。

 環境カウンセラー小林修さん(55)は「立田山の緑が、西の金峰山から続く動物の生育域を残した。これが生態系を維持している」と分析する。

 立田山を15年以上観察する自然観察指導員・中島岩雄さん(51)は「最近は虫や動物が増えた。キツネも確認され、動物のオアシスだ」。

 一方、課題もある。憩の森を管理する市緑保全課の早川善朗課長は「放置自動車が多い。防止条例の制定で多少減ったが、景観を壊している」。

 管理センター職員の本田龍也さん(61)は「ゴミが多くて片づけ切れない。利用者はマナーを守ってほしい」と訴える。

 将来の立田山を見据え、再度住民の力を求める声もある。「雑草狩りや清掃などのボランティアが出てきてほしい」と県森林整備課みどり推進室の續健一・主任技師は話す。

 「たったやま(立田山)はみ-んなの力があって残った。(市街地の)どまん中にあるこんなよか所はなかよね」

 そう話す丸山さんの顔は笑顔でくしゃくしゃになった。

熊日新聞 2003.03.03 夕刊

映画がヒット、黄泉がえり 舞台はあなたの身近な場所 立田山、城山上代町、熊本テルサ…原作には実名で

 亡くなった人たちが、ある日突然家族のもとに、当時の姿のまま戻ってくる-。阿蘇を舞台にした映画「黄泉がえり yomigaeri」が全国で大ヒット上映中だ。原作は在熊の作家、梶尾真治氏が本紙に連載した小説「黄泉がえり」で、映画と違い熊本市とその周辺部でドラマが展開する。人気映画の原点となった小説の舞台を訪ねた。(文化生活部・吉田紳一)

 原作では、県民ならある程度聞いたことのあるような施設や場所が、実名などで登場する。

 桜町の市民会館から船場橋方面に歩くとすぐ、目の前にオフィスビルが現れる。このビルは、熊本で急死した女性アイドル歌手・生田弥生(マーチン)が二階のイタリアンレストランで見つかり、保護されるシーンで登場する。黄泉がえりが全国に知られることになる、重要な場面だ。

 黄泉がえりが始まって約十カ月。物語は、大地震が熊本を襲うといわれる三月二十五日に、クライマックスを迎える。上益城郡益城町のグランメッセから、第二空港線を熊本空港へ向かうと、道路右側に田園地帯が広がる。ここが二十数万人が集まった、マーチンの引退コンサート会場に想定された場所だ。

 また映画で、夫の周平(哀川翔)を亡くしたラーメン屋の玲子(石田ゆり子)は、原作では新古書店でパートとして働く母親・相楽玲子。彼女が一人息子と暮らす市営住宅のモデルは、市営出水団地。そこから歩いてすぐ、熊本テルサがある。ここが彼女に思いを寄せる中岡秀哉と生き返った兄・優一が、相楽一家と食事をしたり、周平が死んだ交通事故の相手・六本松三男と出会う場所だ。

 このほか奇怪な黄泉がえりの目撃場所となる立田山や、新町三丁目、城山上代町界わいなども、登場人物の住所やドラマの舞台として登場する。

 最後に草※剛演じる厚生労働省職員の川田平太は、原作では新聞記者。この川田のモデルは、なんと本紙の某記者らしい。「熊本という地域が主人公」(梶尾氏)という原作。「この場所はひょっとしたら…」と推測しながら読むのも、楽しみ方の一つ。案外、自分の住む地域が、重要な舞台になっているかも?。

=※は「弓へん」に「前」の下に「刀」=

熊日新聞 2005.06.21 朝刊

国天然記念物「立田山ヤエクチナシ自生地」(熊本市) 30年以上確認なし 目立つ枯死 復活に“危険信号”

 国の天然記念物に指定されている熊本市黒髪の「立田山ヤエクチナシ自生地」で、ヤエクチナシが三十年以上も確認されていない。ここ数年は八重咲き以外のクチナシの枯死も目立ち、自生地として復活する可能性すら失いかねない状況に陥っている。

 立田山自生地のヤエクチナシは、学名(和名)「ヒゴヤエクチナシ」で八重咲き。一九二〇(大正九)年、旧制第五高等学校の教授が発見。約二ヘクタールの自生地が、二九年に国の天然記念物に指定された。

 戦中戦後の環境悪化で、市の調査では既に六七-六九年にヒゴヤエクチナシは見られなくなっていた。市は七一年、自生地の隣接地で二株を確認、周辺の〇・五六ヘクタールを「保護区域」に設定した。だが、保護区域でも七三年を最後に確認されていない。

 市教委文化財課は「自然に手を付けず、現況を守る」という方針だったが、「結果として木が茂り、十分な日光が必要なクチナシの成育に悪影響が出てしまった」。

 九六年から保護区域内を調査しているが、見つかるのは八重咲き以外のクチナシのみ。しかも、確認された七十五株(九八年調査)のうち、花を咲かせたのは七株。九州東海大学植物遺伝資源学研究室による〇三年調査では、この七十五株のうち四十三株が枯死、着花したのは六株だった。

 立田自然公園(泰勝寺跡)などに残るヒゴヤエクチナシは、いずれも自生地から移植されたといわれている。しかし、「間違いなく自生地固有のものと確認されない限り、再び自生地に戻すことはできない」と同研究室の長野克也教授(49)。「現在残る未着花や一重咲きのクチナシが、遺伝子レベルではヒゴヤエクチナシと同様という可能性もある。森の環境が戻れば復活の可能性はあるが、クチナシそのものが減っているのが心配」と指摘する。

 市は当面の対策として、昨年度から保護区域内の枝切りを始め、さらに保護区東側の現況調査にも着手。自生地への移植の可能性を探るため、移植して残ったとみられるヒゴヤエクチナシの遺伝子調査の実施も検討している。(小多崇)

熊日新聞 2006.10.14 朝刊

漱石「草枕」「二百十日」100年特集=漱石先生、ガチンコだが情にもろく

 魚より肉が好きな美食家だが、酒に弱い。たばこは2箱。謡を習いおしゃれだった。旧制五高の英語教師だった夏目漱石は、4年3カ月を熊本で過ごした。残された書簡や五高の資料などから、学校と家庭での漱石像に迫った。

 午前八時。赤レンガの洋風校舎に始業の喇叭(らっぱ)が鳴る。待ち受ける三十人ほどの学生。ドアを開け、教壇にたどりついた教師は、チョッキから時計を取り出し、机の片隅に置いた。「漱石先生」いつものスタイル。緊張感が走る英語の講義の始まりだ。

 第五高等学校に勤めた文豪夏目漱石。三十歳前後の青年教師だった漱石は、赤点もよくつけるが、面倒見が良く学生に慕われた。漱石のキャンパス・ライフをたどると-。

 ●逸材集った五高

 漱石は一八九六(明治二十九)年、五高に赴任した。まだ独身の二十九歳。一年いた前任地の松山は居心地が悪く、熊本への転居は「人を遇する道を心得ぬ松山のものを罰したつもりである」と痛烈な言葉を残している。

 漱石は着任後まもなく教授に昇格。その後も英語科主任を任せられるなど教師としての実績を重ねた。三年後には教頭心得になっている。

 五高には遠く関東、東北からも学生がやってきた。当時、全国で高等学校は東京、京都、仙台、金沢、熊本にあるのみ。その上級学校の帝国大学は、漱石の五高着任の翌年に京都にできるまで東京にしかなかった。五高の予科クラスは、ほぼ全員、東京帝大に入っていた。

 そんな逸材たちにも漱石の講義は難しかったらしい。「教場では厳格な、やかましい、皮肉な先生」「同窓の一部には大層怖かった」と卒業生は振り返っている。テストも難解で、赤点が少なくなかった。

 漱石は、すらすら英語の文章を音読し、細かく解説を加えなかった。何か込み入ったことについて会心の説明をするときは、人差し指を伸ばして、鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。

 一講義は五十分。午前中、四時限あった。午後も講義があり、冬はスマートに黒いオーバーを着込んで、学校を後にする漱石の姿があった

 ●学生の面倒見よく

 講義はガチンコだが、学校以外では違った。酒を飲んで夜十二時過ぎ、「空腹でたまらない」とやってきた学生に食事をさせたりした。金が足りない学生には、気持ち良く金を貸し、暮らしが苦しい学生は書生として自宅に住まわせた。卒業する学生を「よろしく」と、友人に依頼する手紙を数多く送っている。

 漱石が教えた予科学生に、後に日本を代表する物理学者、寺田寅彦がいる。「天災は忘れたころにやってくる」の警句でも知られ、エッセイストとしても活躍した。テストの成績も申し分なかった。

 寺田は、学年末試験をしくじったらしい友人を助けるため、漱石宅に頼み込みに乗り込む。その時、「俳句とは一体どんなものですか」と質問するが、「レトリックのせんじ詰めたものである」が漱石の答え。以来、書生になりたいと申し出たほど漱石に心酔した寺田。漱石が熱中していた俳句に興味を覚え、読んだ俳句を、漱石の親友正岡子規のもとに送ってもらったりした。

 二〇〇八(平成二十)年は、日本最初のブラジル移住から百年になるが、「ブラジル移民の父」と言われる上塚周平(下益城郡城南町出身)も寺田と同学年だ。卒業写真では漱石と一緒に写っている。

 ●死ぬまで熊本に

 漱石は着任まもなくボート部の部長になるが、江戸っ子らしい気前の良さを物語るエピソードがある。

 そのころ、ボートを海軍省から譲り受けることになった。佐世保からえい航しなくてはならず、部員数人にその役目を託したが、問題は帰路に起きた。修理のため停泊した寄港地で大宴会となり、漱石の月収と同額の百円近くを使い込んでしまった。部員が困り果てていたため、漱石は平然と全額を弁償、責任をとって部長を辞した。

 元来、酒が苦手だった漱石だが、酒席は学生らとの親ぼくの場。明治三十年、英語教師佐久間信恭の送別会の会計報告書が保存されている。会場は水前寺の料亭。三十六人で酒七升を飲んだとある。ほぼ全寮制だったが、学生の酒宴は盛んだったらしい。

 立田山を背にしたのどかなキャンパス。講義の合間には、周囲の自然も満喫したことだろう。生まれ育った東京の喧騒(けんそう)とはかけ離れた生活。そこに学ぶ学生に、旧藩時代の遺風がぬけないからか、非常に教師を尊敬するとして目を細めている。

 東京以外では最も長い年月を過ごした熊本。漱石は「学校に置いて呉(く)れさへすれば死ぬる迄(まで)も熊本にいたい」と述べている。(吉村隆之)

 ●龍南会雑誌に投稿

 「実は教師は近ごろ厭(いや)になり…」。松山の俳人正岡子規への手紙でこう吐露した。来熊から1年ほどたったころのこと。教師生活に悩んでいたらしい。当時、妻鏡子の父から転職の誘いもあったが、「当地の校長は是非(ぜひ)とも居(お)ってくれねば困る…(中略)それほど小生を信じてゐるならば小生も出来るだけの事はすべし」と子規に五高にとどまる気持ちを伝えている。

 さらに「教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり」と漏らし、自らの将来を予期させる。熊本時代、漱石のまとまった文章はあまり残っていない。その中、五高の校友会誌「龍南会雑誌」に投稿した「人生」は貴重な資料。人の内面を考察し、小説については「此錯雑なる人生の一側面を写すものなり」と書いている。

 ●明治30年の五高

 漱石が五高教師を務めていた1897(明治30)年当時の高等学校は、17歳前後で入学。予科学生は3年修学し、帝国大学へ進んだ。

 キャンパスは全国の高等学校の中で一番広く約17万平方メートル。現在の熊本市黒髪の熊本大構内にあり、本館教室(五高記念館)をはじめ、化学や物理の実験室、図書室、武道場、学生の寄宿舎などが建っていた。

 予科は文系、理系などに分かれ、5、6クラスほどあった。五高一覧で寺田寅彦の名前が最初に記載されている予科2部2年甲組を見ると、学生は31人。うち熊本出身は2人だけ。高知出身の寺田のほか、東京、京都、兵庫、福岡、長崎、大分など県外の学生が大半を占めていた。

↓ 読売新聞 2007/04/30
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熊日新聞 2007.05.08 夕刊

くまもとスケッチ=立田山憩の森(熊本市) 奥深い自然学べる“博物館”

 熊本市の市街地に近く、市民の憩いの場として親しまれている「立田山憩の森」。四月末、森林の公益的機能を学ぶ“博物館”としてリニューアルされた。立田山の奥深い魅力に触れようと、新緑がまぶしい森に足を運んだ。

 リニューアルは、県が二〇〇五年度に導入した「水とみどりの森づくり税」の税収約二千万円を活用。森林インストラクターなど専門家の意見を基に、四つの観察コースを設定した。コースには、自然環境の特徴を示した解説板二十二基や樹木名の板百九十四枚などを新設。立田山の植物や野鳥を写真入りで説明したパンフレット「さんぽのしおり」も製作した。

 観察コースは、池を挟んで南北に広がる憩の森の北側に「野鳥と古(いにしえ)の森」(三・二キロ)、「ドングリの森とトンボの池」(一・三キロ)。南側に「学習の森」(二・五キロ)、「野鳥とシイの森」(四・三キロ)。このうち「学習の森」を自然観察教室の参加者と歩いた。

 管理センターを出発して数分も歩けば、シイやカシなどが密集した森の中。早速、ガイドを務める県森林インストラクター会会長の力益實さん(61)らが説明を始める。「この森の中にキツツキの巣がありますよ。どこでしょう」。視線の先のカシに、直径十センチほどの小さな穴が見えた。

 このほか、低木や高木が生い茂り自然淘汰(とうた)を繰り返しながら自然林を形作る「階層構造」や、宅地開発から森を守るために県と熊本市が買収し公園化を進めた経緯などを丁寧に説明。

 休憩を挟み三時間程度の観察会だったが、ウグイスやシジュウカラの鳴き声、風が木々を通り抜ける音に気分もリフレッシュ。樹木や野鳥の名前を少し覚えただけでも収穫だ。

 「変わった形の葉っぱとか、いろんな花が見れて楽しかった。また来たい」。家族五人で参加した陳雨嫣ちゃん(8つ)=熊本市新生二丁目=も笑顔で話していた。

 県森林整備課みどり推進室はリニューアルに合わせ、六月から月一回、森林ガイドによる自然観察会を開催する予定。力会長は「都市部の近郊で、これだけ手付かずの自然が残されている場所は貴重。森林の役割に興味を深めるきっかけにしてもらいたい」。

 森林ガイドなどの問い合わせは同推進室(電)096(333)2441。(並松昭光)

 ●メモ

 ◇立田山憩の森 宅地開発を防ぐ目的で、1974年度から県と熊本市が土地取得を開始。その後、1995年度まで22年間をかけて、自然林を一部造成したほか、遊歩道やアスレチック施設などを整備した。県によると、約160ヘクタールに植物745種、昆虫1500種、野鳥約70種が生息している。

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↓ 熊日新聞 2008/12/03
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↓ 熊日新聞 2010/07/31
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↓ 熊日新聞 2011/04/30
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↓ 熊日新聞 2014/02/01
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