立田山・乗越ヶ丘
山神社
立田山 西側山麓の山神社
立田山 南側山腹の山神社
立田山 東側山腹の山神明王
立田山 豊国台公園のお稲荷様
立田山 豊国台公園の豊国御廟
乗越ヶ丘 幸の森の山神明王
立田山山神の碑
森林総合研究所 九州支所 HP より
https://www.ffpri.affrc.go.jp/kys/business/tatuta/kurokami.html
林業試験場九州支場の立田山実験林の中腹,海抜約100mのところ9林班3小班内に「山神」とほりこんだ石碑がたっている。その裏側に 「文化12年乙亥(きのとい)12月朔日(ついたち)新造立之 催主内藤政徳」右側には「御山支配役 古谷甚兵衛 御山治 新左右衛門」左側には「石工忠八,晋助」と刻んである。
文化12年(1815年)といえば,いまを去る162年前のことになる。この年に 相前後して,文化7年には伊能忠敬が,肥後の海岸を測量している。また文政元年(1818年)には頼山陽がこの熊本城下を訪ねている。
この石碑に刻まれている御山支配役について,「熊本の歴史」・「小国郷史」・「黒髪の歴史」などの資料によると,細川重賢(1718~85,細川家8代)の宝暦年間にこの制度がおかれたとある。細川氏が行なった地方行政のなかに「手永」(てなが)とよばれる制度がおかれた。「手永」は石高一万五千石ぐらいで,20~30町村を一区画とする地方行政の制度である。当時の黒髪(立田山一帯を含む)は飽田郡五町手永(字留毛村・下立田村・坪井村)に属し,その長が総庄屋である。その補佐役の1人として,御山支配役がおかれている。(総庄屋・牧山支配役=御山支配役・横目付を手永三役という)
御山支配役は総庄屋と協議して,郡奉行の許しをうけ,山林の育成保護にあたっていたようである。そのもとに御山治めがいて,無苗で地方の豪農であったという。
この立田山の西側にも同じような山神の碑があり,文化7年(1810年)建立となっている。また字留毛神社近くにも山神の碑がある。熊本市北部地区文北財報告書によると,「山神明王」と刻んであり,「享和元年酉(1801年)十月吉日」と年号が入り,碑の裏には「御山支配役 古谷甚右衛門 御山治役 勝木利平次,字留毛村庄屋清四良,同村御山ノ口孫右衛門,同村石工和七,伊助と記されている。
山神祭については,国有林の慣習として,第一線の現場では,旧暦の9月16日に,山仕事の安全祈願と従業員の選奨などの行事を行なっている。われわれも毎年その山神碑前でささやかな山神祭を行なってきた。
去る6月1日,今年が九州支場創立30周年にあたるので,かねて準備を進めていた鳥居もできあがったので,大西支場長が催主となり,地元藤崎八幡宮宮司司祭のもとに,九州支場の発展,職員の健康,安全の祈願祭が,その日激しい雨のため,支場大会議室において,おごそかにとり行なわれ、その昔山の鎮めを山神に祈ったという敬神の念にあやかることができた。